嫌だなぁ〜思う時がチャンス?

湯木尚二といってわかる人、どれくらいいるでしょうか?
それでは、船場吉兆を知っている人はどれくらいでしょう。
船場吉兆はかつて大阪市中央区に存在した吉兆グループの高級料亭で、
そこの次男が尚二氏。当時は複数の店舗を任されている経営者の一人でした。
創業者である湯木貞一と父である正徳の料理人としての姿を見て育った尚二氏。
板前として船場吉兆で腕を磨き、のちに博多店を任されるようになります。
当時の船場吉兆はイケイケだったそうで、
現場の仕事は部下に任せて、自分は経営者との会合などで忙しかったそうです。
トップが現場を離れると、大体おかしくなっていくものです。
そして事件が起こります。
2007年にデパートで販売していたプリンやゼリーの賞味期限を偽造。
それから、食品の産地の偽造、店舗では食べ残しの再提供などが行われ、食品偽造問題として騒がれました。営業停止命令が下され、そのあと営業再開するもお客さんは戻ってこず、2008年に民事再生法適用を申請。同日6月には破産手続きを行いました。
船場吉兆が起こしたこの出来事は、ブランドの毀損ということで、よくブランディングの事例として使われているくらい有名なものです。
その後、船場吉兆はどうなったのでしょうか?
NHKのドキュメンタリー番組「逆転人生」にて、湯木尚二氏が、その時のことと今を語ってくれました。
船場吉兆廃業後、数ヶ月間はなにも手につかず、人と会うのも怖くて、外出する時はいつも帽子・サングラス・マスクをかけていたそうです。
外で働いていると記者が訪れることもあり、お店の迷惑になるからと外でも仕事が出来ず、内職しながら生活を繋いでいたそうです。
その後、懇意にしてくれた外食チェーンの経営者から声がかかり、船場吉兆での料理の技術を教えたり、外食コンサルタントとして食の仕事に復帰しはじめます。
事件から2年後の2010年。知り合いの不動産屋から、小さな鮨屋だった場所に空きが出たから、そこで料理屋をやってみないか?と声がかかります。
この時の彼は複雑な心境だったそうです。
今、仕事自体も順調になってきている。
今の状況の中、お店をやるのはどうだろうか?
そんなことを考えていたそうです。
しかし、その鮨屋の大将の仕事ぶりに感化され、お店を開く決意をします。
彼の仕事ぶりは丁寧で、お客さんへのもてなしがあり、心のこもった料理だったそうです。
「一生懸命、初心に戻って、お客様とちゃんと向き合って仕事をして行こう」
そう思ったとのことでした。
その後、彼の仕事ぶりはお客さんに評価され、
北新地にお店を出すまでに至り、現在3店舗を経営しています。
テレビの中の彼は、
必死に前を向いて、お客様と真剣にむきあう。言い訳しない。
奢りを抑え、必死にもがきながら、
お客様と向き合うと誓った自分との約束を守っているように見えました。
自分がスイッチ入った瞬間っていつだろう?
二つ、思い出した。
ひとつ目は役者を辞めてサラリーマンになった時。
あの時は遅れを取り戻そうと必死だった。
もうひとつは会社を立ち上げた時。
3年やってダメだったらサラリーマンに戻ろうと思ってたけど、
いざ始めたら絶対に失敗したくないと必死だった。
どちらもそうだけど、自分から進んで道を選んだという感じではない。
どちらかというと、押し出された感じだ。
海に投げ出されたら泳ぐしかない。
そんなのに似ていると思う。
チャンスを掴むという言葉があるけど、掴みに行って掴めるものじゃないと思う。
気付いたらあった。
そんな感覚に近いように思えてならない。
こんなことを書いていたら、付箋の話を思い出した。
「世の中には付箋がぶら下がっていて、そこには答えが書いてある。ただ、見える人と見えない人がいるだけ」
付箋が見える側の人間になりたいと思う。
100%は無理だけど、必死になる覚悟があれば、見える付箋は増えると思う。
その覚悟って、どっちかというと嫌だなぁ〜っていう感覚の覚悟。
海に投げ出された方が、人生は断然面白い。
そして必死になって泳げば、そんなに悪いことにはならない。
尚二氏を見て、そう思った。
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今週も週刊秋葉塾をお読みいただきましてありがとうございました。
有名になったつぶやき女将は現在83歳。
耳が遠くなったことで声が大きくなり、もうつぶやけないそうです(笑)
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